投稿日:2020年9月4日 更新日:2023年11月25日

雛人形

厄払いからお姫様に!雛人形の成り立ち・歴史を知ろう

毎年飾る雛人形ですが、その成り立ちや歴史までご存じの人は少ないかもしれません。お子さんの健やかな成長や幸せを願って飾る雛人形、お子さんが無事大きくなったら、ぜひその成り立ちや歴史も教えてあげたいところです。そこでこの記事では、雛人形の成り立ちや歴史、由来などについてご紹介します。

 

もともとは貴族の遊び!?雛人形の歴史と形の変化

雛人形の歴史

雛祭りの歴史は「『源氏物語』にも登場!?雛祭り(桃の節句)の歴史を知ろう」 でもご説明したように、人々の間で行われていた人形による「身代わり信仰」から始まりました。

それがいつしか「(厄)払いの儀式」として「流し雛(※)」という風習になり、人形を使ったおままごとのような「ひいな遊び」という貴族の遊びと結びついた結果、やがて今の「雛人形」になったのです。

明治時代以降の雛人形はあまり広く普及しておらず、裕福な家庭のステータスの一種として扱われていました。一般市民の手に渡るようになったのは大正後期以降で、雛人形は「子を思う気持ち」の表れとして、少しずつ一般化していったのです。

※流し雛(別名:雛流し)とは:昔は病気のことを「災い」や「祟り(たたり)」として怖れていたため、それを払う行事として流し雛が行われていました。人の形をした紙などを「形代(かたしろ)」として身代わりに見立て、形代で体の悪い部分をなでて痛みを移し、川に流すという「身代わり信仰」に基づいた行事です。この「流し雛」が雛祭りの起源だという説もあります。

 

雛人形が生まれるまでの、日本における人形の風習・歴史 

縄文時代~古墳時代は日本に古くから伝わる偶像崇拝(神や仏を像として作り出し、信仰すること)の風習があり、それが人形に対する考え方のもととなったと考えられています。 日本にはどのような偶像崇拝や人形の風習・歴史があったかをおおまかにみてみましょう。

縄文時代:土偶

弥生時代:天児(あまがつ)※藁(わら)に布をかぶせた人形

古墳時代:埴輪(はにわ)

奈良・平安時代:紙人形・簡素な人形

江戸時代:ほぼ現代の人形に近い座り雛

縄文時代~古墳時代は日本に古くから伝わる偶像崇拝(神や仏を像として作り出し、信仰すること)が人形の形のもとになっています。つまり雛人形はもちろん、日本の他のさまざまなしきたりの源流になっていると言われています。

奈良・平安時代からは雛人形のもとになったと思われる「紙で作った人形」や「簡素なつくりの人形」が登場します。『源氏物語』や『枕草子』ではこれらで「ひいな遊び」が行われていた描写があります。そして江戸時代になると雛祭り自体も女の子のお祭りとして華やかに祝われるようになり、雛人形も現在の人形に近い、美しい装束をまとった座り雛になっていったといわれています。日本古来のこうした偶像崇拝や人形の歴史が、やがて雛人形の源流となったのではないかと考えられます。

 

平安時代、雛人形は貴族の少女の遊び道具だった

さまざまな物語に「ひいな遊び」が登場し、雛人形が現在の形に近づきつつあった平安時代。この頃、雛人形は一般庶民の子どもが使えるような遊び道具だったのでしょうか?

当時、雛人形は紙で作られた人形などが主流であり、材料となる紙は高級品であったため、一般家庭で雛人形を手に入れることはかなり難しかったようです。このことから、「ひいな遊び」はあくまでも宮中の貴族を中心とした遊びであったと考えられます。

また、『源氏物語』の作中に紫の君がひいな遊びをしている場面があります。その様子を見た女中が「まだひいな遊びをしているのですか?」と発言しています。当時は10歳以上になると「大人」として扱われるようになり、女中の発言からも「ひいな遊び」は成人女性が遊ぶものではなかったことが伺えます。現代でいう「おままごと」のようなイメージだったのかもしれませんね。

このように、雛人形は当時の貴族の少女のみ遊ぶことができる、高級な子どもの遊び道具だったといえるでしょう。

 

歴史の長い雛人形、ぜひお子さまにも話してみては

雛人形の歴史は身代わり信仰から始まり、流し雛などを経て次第に今の雛人形へと変化してきたと言われています。土偶や埴輪、紙人形などその形もさまざまに変わってきており、現代のような座り雛に近づいたのは江戸時代になってからのようです。平安時代は「ひいな遊び」として貴族の少女の遊びに使われていた雛人形ですが、今では一般家庭で女の子の健康と幸せを願う役割を担っています。お子さんが大きくなったあかつきには、ぜひ雛人形の成り立ちや歴史についても話してあげてみてはいかがでしょうか。


この記事の監修者
代表取締役 原 英洋

1963年東京生まれ。祖父:原米洲(人間国宝)、母:原孝洲(女流人形師)。慶応義塾大学経済学部卒業後、大手出版社・集英社に入社。1987年父親の急逝により、家業である人形専門店に入社。1988年専務取締役就任。2008年に独立して株式会社ふらここを創業。女性活躍推進活動に注力し、2015年に経済産業省『ダイバーシティ経営企業100選』の認定を受ける。
スタッフ全員に光をあてたチーム体制を大切にし、人形業界全体の再興を見据え、「お客様に望まれる商品が多く作られるようになれば、業界も元気が出てくる。その先駆けになるものづくりを進める」ことをモットーとし、日本の美しい文化を次世代に伝えていくことをミッションとする。

代表取締役 原 英洋